大和悠河のパリから贈るエトワール紀行 ~ロマンチックに紡ぐ魔法~②

宝塚トップスター・女優・大和悠河 が紡ぐ、伝説の都からの最新アートのトキメキとカンゲキのクロニクル。
『えんぶ☆TOWN』連載では、大和悠河が石畳のパリで感じた街の鼓動や、心温まる出会いから得た感動、その感動から生まれるインスピレーションで、あなたの日常に新たな光を注ぐことでしょう。
大和悠河の感性と情熱が生み出す独自の美学―既成概念を超える『C調と遊び心』―が、未知なる芸術の航路へとあなたをご招待します。

「こんなファンテーヌ、見たことない。」~夢を見ることさえ許されなかった人々~

それは、偶然の出会いでした。
ちょうど日本では東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』の新シーズンが幕を開けようとしていた頃、私はパリ、シャトレ劇場にいました。
フランス語による新演出の『レ・ミゼラブル』を観劇できることに、胸を躍らせていたのです。


けれど、そこで私が出会った『レ・ミゼラブル』は、今まで私が思い描いていた舞台とはまったく違うものでした。
それは、私の想像を遥かに超える、予想もしていなかった驚きと感動に満ちた体験だったのです。
まるで、作品の深い地層にひっそりと眠っていた“まだ語られていない新たな解釈の物語”が、そっと語りかけてくるような──。
19世紀のパリを生きぬいた女性・ファンテーヌが、時代を越えて「母」の象徴として立ち上がってきたのです。

「こんなファンテーヌ、見たことない!」

最初の音が奏でられた瞬間、オーケストラの躍動感は期待通りでした。
それは、ニューヨークでもロンドンでもない、“パリ”の響き。
パリの空気を含んだ、しなやかで熱のこもった音楽が、劇場全体を包み込みました。


舞台に現れたファンテーヌは、黒人の女性でした。
それは想像をしていなかったキャスティング。
けれどその事実が、時代や人種を越えた「物語の拡がり」となって、私の中で深く息づく公演となったのです。


そして、彼女が第一声を発したその瞬間、劇場の空気が明らかに変わりました。
そこにいたのは、もはや“19世紀のフランスの女工”ではなく、名前すら持たない、“夢を奪われた人々”を代表する祈りの存在だったのです。


彼女の「夢やぶれて」は、まるでジョージ・ガーシュウィンの『Summertime』を思わせるようなブルースの香りと、黒人霊歌(スピリチュアル)の祈りを宿していました。
それは、歌という表現を超えた、“抑圧された記憶”が音楽となって立ち上がる瞬間。
彼女の声は、まさに「歴史を背負った声」として舞台の空気を一変させ、『レ・ミゼラブル』という作品に眠っていた可能性を目覚めさせたのです。

1幕が終わった後、私は彼女が代役だったと知りました。
けれど、その存在感は明らかに代役の域を超えていました。


舞台は、まさに一公演限りの奇跡。
このファンテーヌが奏でた「夢やぶれて」は、「夢を見ることすら許されなかった人々」の記憶と祈りを背負いながら紡がれた一曲として、私の胸に深く刻まれました。


そして彼女が1幕で亡くなったあとも、その声と存在感は、静かに、しかし確かに2幕の舞台にも残り続けていたのです。
そして今もなお――
その歌声は、私の中で「レ・ミゼラブル」、そしてファンテーヌという祈りの声として、力強く鳴り響き続けています。

夢とロマンの宝塚、そして“奪われた夢”の祈り

宝塚は110年の歴史を通じて、夢とロマンを届けてきました。
私自身、トップスターとして舞台に立ち、「ときめき」や「夢」という光を観客の皆さまに届けることを、心から大切にしてきました。
そのことに誇りを持っています。宝塚の夢は、舞台に生きる私の誇りです。

けれど、あのシャトレ劇場で出会ったファンテーヌの姿は、まったく異なる地平に立っていました。
それは、「夢を見ることすら許されなかった人々」の声。
彼女の歌は、奪われた夢の記憶を取り戻そうとする、静かで、しかし燃えるような祈りだったのです。

ときめく夢の世界と、奪われた夢を歌い継ぐ声――。
この両極にある“夢”の姿を舞台で届けられること、そこにこそ舞台芸術の真価がある。
そう感じた瞬間でした。

そしてその公演で、ファンテーヌに深く心を揺さぶられた私に、さらなる“驚き”が待っていたのです。

それは──

え?ジャン・バルジャン?何がおきたの??

──二幕の幕が上がった瞬間、劇場がざわめいたのです。

(つづく)

文◇大和悠河 写真提供:(株)GOOGA