【植本純米vsえんぶ編集長、戯曲についての対談】『熊』アントン・チェーホフ 作 神西清 翻訳

植本 今回はチェーホフの『熊』。
坂口 どうでした?
植本 神西清さんの翻訳なんだけど、とてもみずみずしい。
坂口 はい。
植本 普遍性がある。古びてない。時代を経て読んでいてもこんなに生き生きと感じられる、これは素晴らしいと思いました。
坂口 1888年に作られた一幕もの笑劇です。チェーホフの戯曲としては初期の作品ですね。
植本 この作品ではまだ誰も死なない(笑)。
坂口 (笑)。彼はこの頃それなりに人気があったようですけど、こんなストレートなお芝居も作っているんだなと思って、なんか嬉しいです。
『熊』
【登場人物】
ポポーワ(エレーナ・イワーノヴナ) 両頬にエクボのある若い未亡人、女地主。
スミルノーフ(グリゴーリイ・ステパーノヴィチ) 中年の地主
ルカー ポポーワの従僕、老人。
【ト書き】
舞台は、ポポーワの地主屋敷の客間。
ポポーワ(大喪の服をきて、一葉の肖像写真から眼をはなさない)
(『熊』青空文庫より引用)
植本 登場人物は三人なんですけれども、その内のひとりはエクボのある若い未亡人、女地主のポポーワさん。もう一人がスミルノーフ、中年の男地主で退役軍人でもあります。そしてルカー、ポポーワさんの老人の召使いですね。
坂口 場所は女地主ポポーワの客間です。
【本文】
ルカー 困りますなあ、奥さま。……それじゃ御自分の身を、じりじり滅ぼしておいでになるだけですよ。(中略)
なにせ、もうこの一年というもの、うちから一あしも、おでましにならないなんて!……
ポポーワ ああ、二度とふたたび、外へなんか出ないよ。……出てどうするのさ? わたしの一生は、もう終ったんだよ。あの人はお墓のなかに臥ている。わたしは、この四つの壁のなかに、自分を埋めている。……ふたりとも、死んでしまったのさ。
(『熊』青空文庫より引用)
植本 設定としては、ポポーワさんが7か月前にご主人を亡くし、それからずっと外に一歩も出ずに喪服を着て暮らしています。
坂口 はい。
植本 そこに中年の男スミルノーフが亡くなった旦那さんに貸した金を返せと屋敷を訪ねてきます。ずかずかと召使いの制止をふりほどいて家の中へ入ってきちゃいます。
坂口 そうなんだよね。ポポーワは今は人と一切会わないって言ってるんですけどね。スミルノーフは勝手に入ってきちゃいます。
植本 お金を返してくれって急に言われても今手元にない、明後日に支配人が帰ってくるから待って、って言うんだけど、
坂口 スミルノーフは明日が自分の借金の利子支払いの期日なんですね。だからどうしてもお金が要るということで乱暴に返金を迫ります。
【本文】
スミルノーフ (入りながら、ルカーに)でくのぼうめ、つべこべご託をならべやがる。……頓馬野郎! (ポポーワを見て、威容をつくり)これは奥さま、初めてお目にかかります。退職陸軍砲兵中尉、地主のグリゴーリイ・ステパーノヴィチ・スミルノーフであります! すこぶる重要な用件のため、ご静閑をわずらわしますが……
ポポーワ (手をあたえずに)どういうご用向きでしょう?
スミルノーフ 亡くなられた御主人と、おつきあいを願っておった者ですが、その御主人に、約束手形二枚で合計千二百ルーブリ、御用だてしてあります。じつは明日が、農業銀行へ利子を払いこむ日になっとりますので、ひとつ奥さん、その金を今日のうちに御皆済ねがいたいので。
(『熊』青空文庫より引用)
植本 そのスミルノーフが『熊』、タイトルですね。
坂口 おっさんが熊っぽいということか。
植本 実際に言われているしね。ポポーワに熊、熊って。
坂口 なるほど、ここは言葉のやり取りが面白いですね。
植本 そうね。
坂口 なんかお金を返せ返せないから始まって、だんだん話が自分のことにね。
植本 ポポーワの方は自分は喪中だから、7ヶ月経ってんだけどね、今お金の話をする気分じゃない、と言うんですよね。気分(笑)。
坂口 ただ、相手はそういう話じゃねえんだよと。
植本 何が気分だと。
坂口 そこからだんだん論点がずれていきます。スミルノーフは「女というものは」っていう話になってきて、そうすると奥さんの方も言い分があって「男は」って話になっていきます。
植本 男と女どっちが貞淑で正しいのかみたいな論争になります。
【本文】
ポポーワ では伺いますが、貞節で心変りのしないのは、いったい誰だと仰しゃるんですの? まさか男ではありますまいね?
スミルノーフ そりゃ無論、男ですとも!
ポポーワ 男ですって! (意地の悪い笑声)貞節で、心変りのしないのが男ですって! おやまあ、なんて珍しいはなしでしょう! (躍起になって)よくもまあ、そんなことが言えたものねえ? 男が貞節で、心変りがしないですって! こうなった以上、はっきり申し上げますけど、わたしが過去現在を通じて知っている男の人のなかで、一ばん立派な人は、亡くなったうちの主人でした。……わたしは、若い思索的な女性でなければできないような愛し方で、あの人を熱烈に、一心こめて愛しました。
(『熊』青空文庫より引用)
坂口 ここはポポーワの方は夫に対してのイメージしかないというのも見えてきますよね。「うちの旦那はこうだったから男はこうだ」みたいな。
植本 うちの旦那ほどいい人はいない、正しい人はいない。その旦那でさえ浮気する、みたいな(笑)。
坂口 彼女は世間が狭いんですけれど、その狭さが面白いですね。そして両方ともセリフが長い。
植本 まあね(笑)。でもテンポがいいからそんなに長く感じない。
坂口 これ役者が台詞をちょっとくらい間違っても平気だね。
植本 感情が高ぶっている、みたいな、ね(笑)。
坂口 だから、台詞の長さはやる人にとってはそんなにプレッシャーにならないかもしれない。
植本 見ている方は機関銃のようにまくしたてて欲しいですよね。
坂口 そうです。別にそんなに意味なんて、端々で聞こえてくる言葉で十分なわけでしょう。
植本 これ本当にうまくて魅力的な人にやってほしいです。
坂口 表面的には単純な話だからね。
植本 お客さんとして見るんだったら、本当にこってり力のある人にやってほしいですね。
坂口 そうですね。
*
植本 男の方は古田新太さんとかいいと思うんですけどね。
坂口 女の人の方はデリカシーがないと成立しないかなって思うんですよね。会話にも出てきますが、引きこもって自粛していると言うけど化粧したりしてんじゃん、みたいなことを男に言われたりするから、そういう意味では複雑な自意識というか。
植本 だってさ喪服で過ごすのだって、結局喪服で過ごす自分が好きなわけでしょう。
坂口 そうですね。
【台本】
ポポーワ (両の拳をにぎり、地だんだを踏みながら)このどん百姓! がさつな熊! 成りあがり! ずく入道!
スミルノーフ なんだと? なんと言ったんです?
ポポーワ あなたは熊だ、ずく入道だと言いました!
スミルノーフ (つめ寄りながら)失礼ですが、ぜんたいどんな権利があって、わたしを侮辱なさるんです?
ポポーワ ええ、侮辱しますとも……それがどうしまして? わたしが怖がるとでも、お思いですの?
スミルノーフ あなたは、自分が詩的な存在であるから、いくら人を侮辱したって無事で済む権利があると、高をくくってるんですな? そうですね? よし、決闘だ!
ルカー さあ事だ!……桑原桑原!……み、水を!
スミルノーフ ピストルだ!
(『熊』青空文庫より引用)
植本 で、論争が激しくなって、男の方から「じゃあ決闘だ」って。これもちょっと乱暴だなと思ったけど。
坂口 女が受けるんだよね。
植本 そう、ポポーワは引かない。
坂口 だからここら辺が貞淑な妻を演じている彼女のキャラクターは結構幅が広いと思うんですよ。そこを上手にね。
植本 そこ間違っちゃうと見ている人から嫌われちゃいますね。
坂口 だから男は割と誰でもできるかなって。
植本 (笑)。
坂口 逆に言えば、なんだろう。
植本 言いたいことはよくわかった。もしかしたら、そんなに技術がなくても、風格だったりとかでね。
坂口 できるかなと思うけど、この女の人の役は
植本 鮮やかにやってほしいもんね。
坂口 召使いも上手にやってほしいんですよ。芝居の流れとしても彼が出てくることで、一回、客が落ち着くというか、画面が落ち着く。
植本 うん、うん。
坂口 そういう風に作ってます、上手ですよね。後の作品なんかでも、ここで音楽が欲しい時に裏から楽隊の音が流れてきたりとかね。これはさすがに音楽はないけれども、こういう召使いが上手なタイミングで出てくるというのが芝居のあや?ですよね。とても面白い。そして決闘の場面ですね。
*
植本 言い合いになって決闘をすることになり、彼女がピストルをね。
坂口 二人とも興奮して感情の赴くままに決闘をやろうと、彼女がピストルを持ってきます。
植本 家に旦那のが2丁あるので持ってくるんですけど使い方が分からない。これから決闘しようとする相手に使い方を聞くという、可愛い場面ですよね。
坂口 男が使い方を教えたりして(笑)。
植本 重要なのは、ピストルを取りに行ったポポーワが退場した時に、スミルノーフが恋に落ちているっていうことなんですよね。この恋に落ちた瞬間が難しいと思う。
坂口 はい。
植本 ポポーワがいなくなって一人になった瞬間に「今まで12人振って9人に振られている」経験豊富な男が「こんな女には会ったことがない。見たことがない」って恋に落ちた。
坂口 彼は3人分得してますね。
植本 それで彼女が戻ってきて、ピストルの使い方が分からないと言うと、本当に手取り足取り教えてあげてます。
(本文)
ポポーワ (ピストルを二挺もって登場)さ、これがそのピストルです。……でも、決闘をはじめる前に、どうして撃つものか教えていただかなくちゃ。……わたし生まれてから、ピストルなんか一度も持ったことがないんです。
ルカー ああ神さま、お慈悲です、お助けを。……ちょっくら行って、庭男と馭者をさがしてこよう。……一体どこから、こんな災難が降って来たものやら……(退場)
スミルノーフ (ピストルをあらためながら)ええと、ピストルにもいろいろ種類がありましてね……決闘専用の、雷管のついたモーチマー式のもあります。だがお宅のこれは、スミス・ウェッソン製のレヴォルヴァーで、たまは後装式、抽筒子つきの三連発です。……いや、りっぱなピストルだ! こういうのになると、一対すくなくも九十ルーブリはしますな。……さてと、ピストルはまずこう持って……(傍白)あの眼、あの眼! 焼夷弾みたいな女だ!
(『熊』青空文庫より引用)
坂口 ちょっと乱暴な話ですけど、でもそんな乱暴者が最後は惚れちゃうわけだよね。
植本 で、決闘なんだけどスミルノーフは、「俺は空に向かって撃つから」って言いますね。そうすると、ポポーワが「何で?私やる気満々なんだけど」って。
坂口 その彼女の分からなさ加減も素敵ですね。
植本 ずっ~と怒っているからね。
【本文】
ポポーワ わかりました。……部屋のなかじゃ決闘に不便ですから、庭へ出ましょう。
スミルノーフ 出ましょう。ただ前もって言っておきますが、わたしは空へ向けてうちますよ。
ポポーワ この上まだそんなことを! なぜです?
スミルノーフ なぜって……つまりその……。いやなに、こっちの話です!
ポポーワ 怖気がついたのね? そうでしょう? へへ、へえーだ! 逃げようったって駄目ですよ! おとなしく、わたしについてらっしゃい! そのおでこに穴を明けないうちは、あたしは気が済まない……そのおでこ、見てもぞっとするわ! ほんとに、こわくなって?
スミルノーフ ええ、こわくなりました。
ポポーワ うそばっかり! なぜ決闘がしたくなくなったんです?
スミルノーフ なぜって……それはつまり……あなたが気に入ったからです。
ポポーワ (意地のわるい笑い)この人の気に入ったって! わたしがこの人の気に入ったなんて、よくも言えたもんだわ! (ドアを指さして)どうぞ、お引きとりになって。
(『熊』青空文庫より引用)
坂口 色々と見せ場があります。
植本 そこからあとはもう帰って。帰る、行かないで、の繰り返しだから(笑)。
坂口 ここがまた現代的なコントっぽい(笑)。
植本 コテコテです。
坂口 150年前にこんな立派なコントがあった。
植本 そうだね。
坂口 だからどうだという話でもないですけど。
植本 でも最後まで「本当にどいてください。その手を離して私、あなたが大嫌いです」と。その後の括弧書きが長い接吻なんですけれども、これも何でしょうね、長い接吻とだけ書いてあるので、女から行くのか、男から行くのか、同時なのかってあると思うんですけど、多分同時が面白いのかな。
坂口 見ている人も良かったって思うじゃないですか。だから何だろう、ここからどうやって後日いろいろな評価を受けている形のチェーホフになっていくのかが面白いですね。
植本 そうですね。
坂口 それにしても若いとき書いたやつは勢いがあっていいですね。
植本 ね、本当にフレッシュ。
坂口 最後の場面で雇われている人たちが初めて舞台に出てくるのも洒落てますね。
【本文】
今までのふたり、それに斧をもったルカー、熊手をもった庭男、乾草用の大熊手をもった馭者、棒ぐいをもった作男たち
ルカー (接吻している二人を見て)あれまあ! (間)
ポポーワ (伏眼になって)ルカー、おまえ馬舎へ行ってね、今日はトビーにカラス麦を一粒もやらないように、言って来ておくれ。
――幕――
(『熊』青空文庫より引用)
植本 これ最後ね、ルカーという召使いに向かって「お前馬舎にいってね。今日はトビーにカラス麦を1粒もやらないように言ってきておくれ」と言ってますよね。
坂口 ここはよく分からなかった。
植本 これさ最初の方の台詞に出てくるんですけど、トビーって亡くなった旦那さんが可愛がっていた馬なんです。
坂口 あ~。
植本 初めの方で召使いに馬を連れてどこか遊びに行きなさいよって言われて、ポポーワが旦那さんを思い出して号泣するんですよ。だから「今日はいつもよりもいっぱいカラス麦をあげてね」と頼んでいるんです。という“ふり”があって、「今日はトビーにカラス麦を1粒もやるな」が落ちになっているという、ちょっと落語みたいなんですね。
坂口 なるほど。
植本 要は前の旦那が愛していた馬にやカラス麦をやらないってことで、もう旦那のことは忘れますっていう意思表示なんだろうと思うので。
坂口 なるほどね。お金はどうしたんだろう。
植本 いいんじゃないか、もう金は(笑)。
*
植本 これ実際にやったら多分50分ぐらいでできそう。
坂口 うん。
植本 ここに来る前にもう一回読み直したんですけど、20分ぐらいで読めましたもん。
坂口 勢いに乗ったら簡単に読めちゃいます。
植本 青空文庫にも入ってるからぜひ読んでほしいですね。
プロフィール

植本純米
うえもとじゅんまい○岩手県出身。89年「花組芝居」に入座。2023年の退座まで、女形を中心に老若男女を問わない幅広い役柄をつとめる。外部出演も多く、ミュージカル、シェイクスピア劇、和物など多彩に活躍。09年、同期入座の4人でユニット四獣(スーショウ)を結成、作・演出のわかぎゑふと共に公演を重ねている。
坂口真人(文責)
さかぐちまさと○84年に雑誌「演劇ぶっく」を創刊、編集長に就任。以降ほぼ通年「演劇ぶっく」編集長を続けている。16年9月に雑誌名を「えんぶ」と改題。09年にウェブサイト「演劇キック」をたちあげる。