【植本純米vsえんぶ編集長、戯曲についての対談】『安重根−14の場面-』林不忘
植本 今回は林不忘の『安重根』です。
坂口 タイトルになっている「安重根」は韓国の独立運動家と言われている人ですね。日本の初代総理大臣伊藤博文を1905年に暗殺した人です。
植本 どうしてこの作品を選んだの?
坂口 この作品を書いた林不忘は当時(1930年前後)の人気小説家で、映画化もされて大ヒットした『丹下左膳』を書いた人で、娯楽作品の分野で活躍した人だと思っていたんです。そしたらこの作品は真反対のようなシリアスで、しかも戯曲なので面白いかなと。
植本 本当に人気のあった大衆作家で毎日新聞とか読売新聞で連載をしていてね。名前も谷譲次とか牧逸馬とかの別の名前でも色々なスタイルの小説を書いてますね。この作品の発表時(1931年)の署名も谷譲次になってますね。
坂口 人気作家で忙しすぎて36歳で亡くなっているんです。だからそんな人が何で韓国の英雄的なテロリストをって、ずっと気になっていたんです。しかも戯曲のスタイルをとっているという。
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植本 うっすらと知っていたんですが、戯曲とは知らなかったですね。若い頃に大杉栄とかと出会っていたり、アメリカに行って労働運動に参加していたこともあるようなのでその影響もあるんですかね。
坂口 超忙しい大衆作家が、わざわざこんなデリケートな題材を戯曲のスタイルをとって書くって意外ですよね。そして内容も英雄的な物語では全くないし、ただのテロリストのドキュメントでもない。作家の目線が上手に入っいて物語にロマンがありますよね。
植本 それぞれの人に安重根のイメージがあるとしたら、この本を読むとどなたが読んでも意外な感じがする場面があると思いますよ。1回目を読んだときは、さすがに韓国とか朝鮮の名前で読みにくかったんだけど、2回目読んだらスラスラ読めました。それぞれの登場人物の心情がとてもわかりやすかったです。
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坂口 戯曲の話をしましょう(笑)。
植本 14の場面という副題がついていて、順番に彼の2ヶ月間の行動を追っていくみたいな形で書かれています。まず場面1の設定としては韓国の話なんだけれども、場所はロシアのウラジオストクです。
【台本】
(場面1)
一九〇九年――明治四十二年――八月下旬の暑い日。
ロシアのウラジオストクの田舎、小王嶺の朝鮮人部落。部落の街路。乾割れのした土塀。土で固めた低い屋根。陽がかんかん照って、樹の影が濃い。蝉の声がしている。牛や鶏の鳴く声もする。蝉はこの場をつうじて片時も止まずに啼きつづける。
安重根、三十一歳。国士風の放浪者。ウラジオの韓字新聞「大東共報」の寄稿家。常に読みかけの新聞雑誌の類を小脇に抱えている。
樹の下でルバシカ姿の安重根が演説している。男女の朝鮮人の農民が、ぼんやり集まって、倦怠《ものう》そうに路上に立ったりしゃがんだりしている。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
※編注:ト書きの一部を省略して記載しています(以降も同様)。
坂口 ウラジオストクは今の北朝鮮からちょっと海岸沿いに上がっていくくらいの場所ですね。日露戦争の4、5年後の話です。
植本 日本がロシアに一応勝った形になって、という状況ですよね。
坂口 ロシアに勝ったら朝鮮を独立させてあげるって日本が提示していたにもかかわらず、全然そんな風にならなかったので、韓国独立運動が起こっています。
植本 で、活動家の安重根が、ロシアの片田舎にある朝鮮人部落でアジ演説をしているんですが、住民に相手にされていない。
坂口 誰もまともに聞いてくれなくてね。
植本 安重根たちの置かれている状況がわかりやすく伝わってきますね。
坂口 テロリストの物語の入り口としては最高ですね。子供に薬売りと間違えられながらも演説を続けたりとか、そこら辺の虚しさみたいなものがユーモアにまぶされて描かれています。
【台本】
子供が出て来て安重根の前に進む。子供 (手を出して)小父ちゃん! 仁丹ある? ひとふくろ。
安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹《こすい》するために——。
子供 小父ちゃん! お母《っか》ちゃんがね、仁丹おくれって。お銭《ぜぜ》持って来たよ、これ。
安重根 (子供に)小父ちゃんは薬売りじゃないよ。さ、あっちへおいで——私はこの国家的思想を鼓吹するために煙秋《エンチュウ》、水青、許発浦、サムワクウ、アジミイなどこの近在の各地を遊説しているものでありますが(後略)
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
植本 後から来た口達者な薬売りに聴衆を持って行かれて悄然としています。
坂口 14場面をいちいち追っていくと大変なんだけれどその場その場の彼と周囲の人との状況を描くのが上手ですよね。
植本 安重根はもうこの時点で革命の英雄として期待されているわけでしょう。いつか何かやるやつだって。
坂口 仲間内では彼が伊藤博文を暗殺することになってますよね。でもワンクッションある彼の気持ちの矛盾みたいなものはこの後随所で語られていきます。
【台本】
(場面2)
同年十月十七日、午前十時ごろ。ウラジオストク、朝鮮人街、鶏林理髪店の土間。罅のはいった大鏡二つ。粗末な椅子器具等、すべて裏町の床屋らしき造り。
禹徳淳《うとくじゅん》——煙草行商人。安重根の同志。四十歳。
張首明——鶏林理髪店主。日本のスパイ。
お光——張首明の妻。若い日本婦人。
他に、安重根、下剃り金学甫、客、近所の朝鮮人の男、ロシアの売春婦二人、日本人のスパイ。椅子の一つに安重根が張首明に顔を剃らしている。もう一つの椅子にも客がいて、金学甫が髪を刈りて終ろうとしている。入口に近い腰掛けにロシア女二人と近所の男が掛けている。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
植本 この物語には直接は関係のない日本のスパイをしている床屋さん夫婦が登場したりとかして、当時の韓国の床屋さんの生活まで垣間見れておもしろいですね(笑)。
坂口 安重根はその床屋をスパイとわかっていて、仲間に伝言を頼んだりしています。
植本 この後いっしょに行動する友人の禹徳淳と会って、いまの彼の思いを話したりしていますね。ここで観客は彼の本音らしき思いを初めて聞きます。
坂口 で、そのあと朝鮮解放活動のアジトにもなっている大東共報社に行きます。
【台本】
(場面3)
同じくウラジオストク。鶏林理髪店付近の場末の民家屋根裏、朝鮮字新聞「大東共報」社。編輯局兼印刷工場。同時に主筆李剛夫妻の住居でもある、大東共報社のみすぼらしい全部だ。十月十七日の夕刻。二つの窓から夕焼けが射し込んで、室内は赤あかと照り映えている。李剛——五十歳。大東共報主筆。露領の朝鮮人間に勢力ある独立運動の首領。親分肌の学者で、跛者《びっこ》だ。すっかり露化していて、ルバシカに、室内でも山高帽をかぶっている。
李春華——李剛の若い妻。
柳麗玉——ミッション上りの同志で安重根の情婦。ロシアの売春婦のような鄙びた洋装。二十七歳ぐらい。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 この場面では彼らの生活ぶりが主に描かれていますね。李剛夫婦と同士数名が共同生活のような形で活動しています。安重根の情婦もいますね。
植本 この後の場面でわかってくるんですけど、ここのトップの主筆というのかな、李剛が安重根に暗殺をそそのかしているというか、
坂口 やるなって口先では暗殺に反対の姿勢を示しながら結局ね、安重根の気持ちを焚きつけているというか、勧めているというか、
植本 だから、裏で操っているっていえば、操っている感じですね。ダイレクトにやれって言わない。それは自分の保身でもあったかもしれないですけどね。
坂口 彼の存在は劇画っぽいよね。日活の昔のヤクザ映画に出てきそうなね(笑)。
【台本】
(場面5)
港の見える丘。砂に雑草が生えている。前の場のすぐ後。暗黒。崖縁の立樹を通して、はるか眼下に港が見える。碇泊船の灯。かすかに起重機の音。星明り。安重根と李剛が話しながら出て来る。李剛 朝鮮の着物には個性がないからねえ、忍術には持ってこいだよ。
安重根 何と言いましたっけね、あの角の床屋、来ましたか。
李剛 張首明か。(港に向って草の上に腰を下ろす)歩くのは降参だ。うむ。来たよ。あの男の言葉から、僕は君の意思を察したつもりで、ああして皆を外出させて待っていたのだ。
安重根 (並んで坐る)今朝着いて、あの床屋の店で徳淳に会ったきり、どこへも顔出しせずに、午後いっぱい買物をしていました。ちょっと旅行に出るもんですから、着物や何か——。(行李を叩いて)今夜一晩、黄成鎬さんのところへ泊って、明日《あした》発ちます。
李剛 あした発つ? それはまた急だねえ。だが、日本の客は予定よりすこし早く着くことになった様子だから、なるほど。
安重根 (弁解的に)先生、私は家族を迎えにハルビンへ行くんです。
李剛 (笑う)それもいいだろう。
安重根 (懸命に)ほんとに家族を迎えに行くんです。
李剛 (いっそう哄笑《わら》って)まあ、いいですよ。(後略)
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 この場面はダイヤローグですごく読みやすいですね。でも真っ暗なんですよね。
植本 安重根はこの場面でも逡巡というか、自分は自由にやるつもりだったのに、みんなに持ち上げられているうちに義務みたいになってきて嫌だなという思いの丈を言っていますね。それをなだめるともなく、
坂口 李剛はちょっと茶化しながら、金も渡すんだよね。だから見ているものとしては、本当に行くのか行かないのかまだわからない。
植本 でもこの場の終わりで、李剛が微笑みを含んで見送っているという、どうせ俺の思う通りになるよって感じでですね。
坂口 真っ暗な場面で微笑みなんか見えるかな?これ映像の方がいいかもね。
植本 これからもいろいろな場面が出てくるんだけど、読んでいて映像的だなってすごく思いました。
坂口 作家は上演台本というよりは読み物として書いているようにもみえますね。特にト書きとかを読んでいると情景とかへのこだわりが強烈ですよね。
【台本】
(場面6)
その真夜中。博徒黄成鎬の家。往来に面した部屋。正面いっぱいの横に長い硝子窓に、よごれた白木綿のカアテンがかかっている。朝鮮服、ルバシカ、破れたる背広等を著たる青年独立党員四五十人が、舞台を埋めて立ったり掛けたりしながら、安重根を待って、激越な調子で議論をし合っている。青年らはテンポの速い会話で、がやがや言っているように聞こえる。黄成鎬——博徒。独立党の同情者、五十前後。ほかに禹徳淳、朴鳳錫、白基竜、安重根、柳麗玉、第三場の同志一、二および青年独立党員四五十人。
青年A (一隅から)韓国を踏台にして満洲へ伸びようとする日本の野心は、誰に指摘されなくたってわかっているんだ。
青年B (他の側から)おい、そう言えば、今度伊藤が来るのも、ハルビン寛城子間の東清鉄道を買収するためだと言うじゃないか。
青年C (起ち上って)今でさえ日本は、満洲から露領へかけてのさばり返っている。そんなことになろうものなら、俺たちの運動はいったいどうなるというんだ。【台本】
(場面9)
もとの台所。第七場の続き。安重根は外套を着て歩き廻り、柳麗玉は尊敬をこめて見惚れている。多勢の合唱が隣室から聞えている。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
植本 ここでは安重根と同志たちとのやり取り(騒動)が続きます。いろいろあるんですけど、作家はなんとなくそういう煽るというか、自分は何もしないでこう期待だけ寄せているというか、そういう人に対して全体を通して批判的ですね。
坂口 口先だけで革命家を気取った人たちに対して、安重根の複雑な逡巡には寛容ですね。それにしても林不忘の大衆娯楽作家としての面白さは随所に出て来ますね。
植本 同士たちが安重根が来るのを待っていて盛り上がっている時に、そこに出て行くのが嫌で実は彼は裏の台所に来ているんです。で、見つかって、みんなにボコボコにされてますね。
坂口 安重根が裏切り者と疑われて、仲間に殴られた後に暗殺実行の意思を固める場面がかっこいいですね。
【台本】
安重根 (泪に濡れた笑顔)ははははは、大丈夫、起てるよ。(禹徳淳を認めて)おう! 徳淳——!よろめいて禹徳淳の手を握る。一同呆然と見守っている。
安重根 (力強く)夜が明けたな。(裏口のそとに空が白んで、暁の色が流れ込んでいる)汽車の時間は、調べてあるのか。
禹徳淳 (手を握り返して急《せ》き込む)行ってくれるか。ハルビンへ行ってくれるか。
安重根 (哄笑)はっはっは、心配するな。(柳麗玉に支えられながら)旅費はあるぞ旅費は。はっはっは、たんまりあるぞ。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 この後、暗殺実行のための準備する場面が続きます。
植本 友人の禹徳淳と二人で行動してますね。
【台本】
(場面10)
ポグラニチナヤの裏町、不潔な洋風街路、劉任瞻韓薬房前。十月十九日、夕ぐれ。「韓国調剤学士劉任瞻薬房」と看板を掲げた、古びた間口の狭い店。低い家並みの向うは連山と、市街の屋根の重なる上に白い夕月。教会の尖塔がくっきり見えて、凹凸の石畳の下手に電柱が一本よろけている。夕闇の迫る騒がしい往来。手風琴に合わして朝鮮唄の哀調が漂って来る。劉任瞻——医師兼薬剤師。老人、ロシアの農民風の服装。
劉東夏——その息子。十八歳。ルバシカに露兵の軍帽をかぶっている。
安重根、禹徳淳、柳麗玉、隣家の古着屋の老婆、ロシア人、支那人、朝鮮人等の男女の通行人。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 まず、通訳が必要なのでポグラニチナヤの裏町ある薬屋の息子(劉東夏)に会いに行きますね。
植本 ロシア語を話せる人が欲しくて選ばれるんですけど、これが例の李剛が、多分あいつらはここに寄るだろうという思惑通りなんですね。
坂口 すぐ前にウラジオストクで別れた情婦がピストルを持ってきますね。彼らが持ってくるのを忘れちゃったということ?
植本 違いますよ。李剛がピストルをわざわざ彼女に持たせてきたんです。
坂口 そうか、彼女とはその前にね、涙の別れをしたのに何で来たのって思って。
植本 李剛に忘れものを届けるように頼まれたからと言って、3人で箱を開けてみると、ピストルが2丁入っている。
【台本】
禹徳淳 忘れ物——って何だろう。
柳麗玉 (紙包みを出して)何ですかあたしも知らないんですけれど——あなが方がお発ちになったすぐ後、李剛先生があたしを呼んで、二人が大変な忘れ物をして行った。非常に大切な物だ。ないと困る品だ。安さんは必ずポグラニチナヤに途中下車して、まだそこの劉任瞻という薬屋にいるだろうから、あたしに後を追って渡すようにと言うんでしょう。大あわてにあわててつぎの汽車に乗ったんですの。
禹徳淳 どうして先生は、おれたちがここへ寄ったことを知ってるんだろう。
安重根 (笑って)そら、さっき話したじゃないか。いつか李剛さんが何気なく、ここの劉東夏の噂をしたことがあるって。あの人の言動は、その時は無意味に響いても、後から考えるといちいち糸を引いているんだ。わかってるじゃないか。その時分から僕に東夏を使わせる計画だったんだよ。(柳麗玉へ)いや、ありがとう。御苦労。開けてみよう。包みを受け取って地面にしゃがみ、ひらく。紙箱が出る。
禹徳淳 (覗き込んで)何だい、ばかに厳重に包んであるじゃないか。
安重根は無言で箱の覆を取る。拳銃が二個はいっている。
安重根 (ぎょっとして覆をする。静かに柳麗玉を見上げる)李剛さんが、僕らがこれを忘れて行ったと言ったって?
柳麗玉 あら! (素早く箱の中を見て)ええ。ですけれど、あたし、そんな物がはいっているとは知らずに——。
安重根 そして李先生は、これを僕らに届けるために君を走らせた——。と再び箱を開けて、禹徳淳に示す。二人は黙って顔を見合う。間。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 ここで準備が整ったと。
植本 次に下見のためにハルビンにある洗濯屋さんに行きます。
【台本】
(場面11)
十月二十三日、夜中。ハルビン埠頭区レスナヤ街、曹道先洗濯店。屋上の物乾し台の一隅に安重根と愛人の柳麗玉がめいめい毛布をかぶって、肩を押し合ってしゃがんでいる。長いことそうして話しこんでいる様子。足許にカンテラを一つ置き、一条の光りが横に長く倒れている。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 洗濯屋の物干し台の上で安重根とその愛人が二人で話しているんだけど。ここでもまだ悩んでいて、やめようかなと言い出していますよね。かわいいシーンですね。
植本 安重根が冗談半分で二人でどっかへ逃げて暮らそうと言うと、情婦が怒るんだよね。「あんたは伊藤博文を殺して死ぬんでしょ」って。
坂口 (笑)。それを彼女は望んでいる。
植本 そうそう、そういうあんたが好きだ。これからすごいことを成し遂げる人と私は今一緒にいて、あなたを独占しているみたいに言ってます。
坂口 安重根が伊藤博文のことを調べに調べ過ぎていて、自分が伊藤博文なのか、伊藤博文が自分なのか分からなくなっていて、ちょっと親近感もあるとか言ってますね。
植本 ここは作家の独壇場ですね。右の半身が左の半身を殺すんだから、こりゃどの道自殺行為だよって言ってましたもんね。
【台本】
(場面12)
翌二十四日、深夜。蔡家溝駅前、チチハル・ホテル。
隅に二つ並んだ寝台に、安重根と禹徳淳が寝ている。禹徳淳は鼾《いびき》を立てて熟睡し、安重根はしきりに寝返りを打つ。扉《ドア》の傍の椅子に、大きな外套を着て劉東夏が居眠りしている。薄暗い電燈。廊下の時計が二時を打つ。長い間。ドアが細目にあいて、ロシア人の女が覗き込む。劉東夏の眠っているのを見すまし、そっと手を伸ばして鼻を摘もうとする。劉東夏は口の中で何か呟いて払う。
坂口 伊藤博文の動向をそこで探りつつ待ち伏せしようと思ってホテルに泊まっていると、そのハルビンが結構大きい町で、護衛も警備も厳しいだろうからという理由で途中駅に行ったりしてますね。で、待ち伏せするんですけど、やはり警備はそれなりに厳しくて、
植本 はい、そうです。ここは大衆作家としてのサービスシーン、面目躍如ですね。ロシアの売春婦みたいな人が駆け込んできて通訳の青年を誘ったりとか、突然警備の役人が調べに来たりしてハラハラさせたりね。そこで捕まっちゃえばそれでお終いなんだけども。
【台本】
女 (低く笑って)門番さん! ちょいと門番さんてば! 何だってそんなところに頑張ってんのさ。寒いわ。わたしんとこへ来ない? はいってもいい?劉東夏は眼を覚ます。
女 (小声に)まあ、あんた子供じゃないの? 可愛がって上げるわ。いらっしゃいよ。あたしの部屋へさ。廊下の突き当りよ。
劉東夏 いけないよ、そんなところから顔を出しちゃあ。叱られるぞ。禹徳淳が寝台に起き上る。女はあわててドアを閉めて去る。
禹徳淳 また淫売かい。
劉東夏 (笑って)ええ、あいつとてもうるさいんです。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 このあと、安重根と禹徳淳の伊藤博文の暗殺計画を巡ってのやりとりで、
植本 ここも安重根が独特の論理を主張する中で、激しい展開があってハラハラしますね。
【台本】
安重根 (禹徳淳の手を抑えて一語ずつ力強く)徳淳! いいか、伊藤は、おれの伊藤だぞ。おれだけの伊藤だぞ。殺《や》るならおれ自身やらなくちゃならない必要があってやるんだ。が——。
禹徳淳 (じっと睨んで)詭弁を弄すな、詭弁を。
安重根 殺そうと生かそうとおれの伊藤なんだ。おれがあいつを殺すと言い出した以上、今度は、助けるのもおれの権利にある。おれはあいつを生かしておこう! 殺すと同じ意味で助けるのだ!言い終って禹徳淳を突き放し、身を翻して室外に出るや否、ドアを閉める。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 自分だけ部屋を飛び出すと、そのすぐ後に警備隊が入ってきて、危ないところで安重根一人だけ逃れます。そして、いよいよ最後のハルビン駅での暗殺シーンになるんですね。
植本 その前に伊藤博文が汽車に乗ってハルビンにやってくるシーンがありますね。
【台本】
(場面13)
十月二十六日、朝。東清鉄道長春ハルビン間の特別列車、食堂車内。金色燦然たる万国寝台車《ワゴンリイ》の貴賓食堂車内部。列車の振動で動揺している。正面一列の窓外は枯草の土手、ペンキ塗りの住宅、赤土の丘、牧場、松花江《スンガリイ》の水、踏切りなどのハルビン郊外。車内は椅子卓子を片付けてリセプション・ルウムのごとく準備してある。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
坂口 あ、そうですね。ここでやっと伊藤博文が登場します。結構軽い場面に作られていて、観客としては助かりますね。それでいて言葉に何か意味があるというかリアリティがあって、彼の立場がしっかりと描かれています。
植本 車外の風景を舞台で見せるのはたいへんそうですよね。「近景は汽車の後方に流れるように飛び去り、遠景は汽車について緩く大きく廻る」とト書きに書いてあるし、
坂口 「車輪とピストンの規則正しい轟音。車窓の外の明徹な日光に粉雪が踊っている。」とも書いてあって疾走感も半端ない。
植本 このリラックスした少々騒々しい場面があって、次のパントマイムの静かな場面とのメリハリがドラマチックですね。
坂口 最後の場面は音はあるんですけど台詞がないんですね。少し引用が長いのですがト書きが全てです。読んでみてください。
【台本】
パントマイム同日午前九時、ハルビン駅構内、一二等待合室。
正面の窓の外はプラットフォウム、窓硝子の上の方に向うの線路が見える。寒い朝で雪が積もり、細かい雪が小止みもなく、降りしきっている。
窓のすぐ外、改札口の右側に露国儀仗兵、左側に清国儀仗兵が、こっちに背中を向けて一列に並んでいるのが、硝子越しに見える。
舞台一ぱいの出迎人だが、この場は物音のみで、人はすべて無言である。礼装の群集がぎっしり詰まって動き廻っている。汽車を待つ間のあわただしい一刻。群集の跫音、煙草のけむり、声のないざわめき。美々しい礼服の日清露の顕官が続々到着する。出迎人は、後からあとからと詰めかけて来る。
やがて鈴《ベル》が鳴ると、遠くから汽車の音が近づいて来ている。群集は改札口を出て雪の中を左右のプラットフォウムに散る。汽車の音はだんだん近く大きくなる。出迎人はすっかり改札口を出て待合室は空になる。
改札口には誰もいない。ただ一人、下手窓下の椅子に安重根が掛けている。今まで群集に紛れて観客の眼にとまらなかったのだ。卓子に片肘ついてぼんやりストウブに当っている。茶いろのルバシカ、同じ色の背広、大きな羊皮外套、円い運動帽子。何思うともなき顔。ただ右手を外套のポケットに深く突っ込んでいるのはピストルを握り締めているのだ。
誰もいない待合室だ。安重根は無心に、刻一刻近づいて来る汽車の音に、聞き入っている。長い間。轟音を立てて汽車がプラットフォウムに突入して来る。耳を聾する響き。窓硝子を撫でて沸く白い蒸気。プラットフォウムとすれずれに眼まぐるしく流れ去る巨大な車輪とピストンの動きが、窓の上方、人垣の脚を縫って一線に見える。幾輛か通り過ぎて速力は漸次に緩まり、音が次第に低くなって、停車する。正面、改札口向うに、飴色に塗った貴賓車が雪と湯気に濡れて静止している。号令の声が聞こえて、露支両国の儀仗兵が一斉に捧げ銃する。
同じに喨々たる奏楽の音が起って、しいんとなる。安重根は魅されたように起ち上る。右手をポケットに、微笑している。そのまま前へよろめく。だんだん急ぎ足に、改札口からプラットフォウムへ吸い込まれるようにはいって行く。
(『安重根−14の場面-』青空文庫より)
植本 遠くから汽車の音が近づいてくる。それとか楽隊が演奏しているわけでしょう。そういう音は当然しているんですよ。臨場感たっぷりに汽車が入ってきたら、みんなプラットホームに行っちゃうんだけれども、安重根だけ残っている。楽隊の音が起こって、その後シーンとなる、音が消えるんですよ。
坂口 安重根はポケットで拳銃を握って微笑んでいる。そのまま前によろめく。だんだん急ぎ足に改札口からプラットフォームへ吸い込まれるように入って行く。で、終わります。
植本 ストップモーションみたいな感じですかね。
坂口 とにかくこのラストシーンがカッコイイです!芝居でうまくできますかね?
植本 やり方しだいではとは思いますが。
坂口 映像にしたら絶対にかっこいいと思いますが。場面構成とか、ト書きの風景描写のこだわりとかね。全体を通しての叙情と、作家の遊び心もあってとても読みやすく作られています。
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植本 これは1909年の8月末から10月末までの2か月間の話が、エピソードも盛りだくさんにスピーディに描かれているので夢中で読んじゃいますよね。
坂口 よくネタバレとか言いますけど、これは結果ありきの話ですからね。
植本 それを上手に使って物語を進めているんですね。
坂口 ちょっとみ過激な内容のように思うけど、主人公を中心に周りの方とのドラマも絶妙に入れ込んで物語が進んで行きますからね。
植本 本当にこの作品に出会えて良かったですし、作家の林不忘さんの他の作品も読んでみたいですね。
坂口 こんなすごい人をよく知らなかったって、もったいなかったです。「青空文庫」で無料で読めるので、たくさんの方に読んでもらいたいですよね。
プロフィール
植本純米
うえもとじゅんまい○岩手県出身。89年「花組芝居」に入座。2023年の退座まで、女形を中心に老若男女を問わない幅広い役柄をつとめる。外部出演も多く、ミュージカル、シェイクスピア劇、和物など多彩に活躍。09年、同期入座の4人でユニット四獣(スーショウ)を結成、作・演出のわかぎゑふと共に公演を重ねている。
坂口真人(文責)
さかぐちまさと○84年に雑誌「演劇ぶっく」を創刊、編集長に就任。以降ほぼ通年「演劇ぶっく」編集長を続けている。16年9月に雑誌名を「えんぶ」と改題。09年にウェブサイト「演劇キック」をたちあげる。